オタクとドラマなおはなし

Twitterのプロモを見てふと思った。

「そういえば何故我々オタクは実写の恋愛ドラマを嫌うのだろうか」と。

僕自身オタクという種族であることに間違いはないし,そのプロモを見て吐き気がした。だが「なぜ」ということについては考えもしなかった。

これについて,以前から持っていた概念とこの前見かけた説とを組み合わせると割と容易に説明できてしまう気がしたのでなんとなく考えてみることにしよう。

 

オタクという種族の大きな特徴は「空想と現実の区別に秀でていること」であるとされる。これはそういえば昔からよく言われていたことであるが,このまえ改めてTwitterでそういう話が回っているのを目にするにあたって,確かにそうだと考えた。現実世界で手に入らないものを,あるいはあり得ないものを二次元な世界で得ようとする。これが所謂大半の「アニメオタク」の本質である。

さて,この手に入らないものとは具体的に一体何なのだろうか。多くの場合真っ先に「恋愛」があがるだろう。多くの場合,可愛いヒロインへの欲求は,現実で愛を手に入れることの容易ならざることに起因している。あるいは女の子がキャッキャしている日常系に関しても,「男の介在しない空間」の存在不可能性,言い換えれば「自分以外の異性の観測者の不存在」をその視聴の原動力とする場合が多々見受けられる。その他にも「俺TUEEEE」な物語,異世界転生,「未来」の物語などなど,現実での存在が殆どあり得ないであろうもの,あるいは存在の証明が不可能なものを得るということが,我々「オタク」という種族の基本的な行動である。

 

さて本題である。何故「オタクは実写の恋愛を毛嫌いする」のだろうか。答えはすでに上記のことに示されている。簡単に言うならば『「恋愛」という空想を「実写」という現実性を持った媒体によって描かれることへの違和感を堪え得ざるから』であろう。

 先に述べた通り,オタクというのは現実と空想とを区別する能力に秀でた存在である。そして多くのアニメオタクがアニメオタクたるゆえんは「恋愛」の獲得不可能性による。それゆえ多くのオタクにとって恋愛とは「空想」と似たような存在である。

 

しかしながら世の中の恋愛を描く手段の多勢は「実写」である。そしてそれは紛れもなく「現実」による描写である。現実に存在する場所で,現実に存在する人物が,恋愛という多くの人々にとっては「現実」である出来事を演じる。

 

これがオタクにとっては何を意味するのかというと,恋愛という「空想」が強烈な現実性の下に描かれるのである。そこには大きな違和感が現れる。

例えばアニメという手段での表現を考えてみると,絵という「空想」の下で,現実の場所をモデルにしていることもあるが,あくまでも「空想上」の場所で,実在する「声優」が「空想」の物語を演じる。これはどちらかと言えば『「現実」が「空想」によって希釈されている』表現方法であると云えよう。

しかし実写の場合,「空想」の脚本が現実に引っ張られる,即ち『「空想」が「現実」によって希釈されている』のである。まずここで違和感を覚えざるを得ない。そしてその違和感に対しては多くの場合「拒絶」を以って対応する。

さらには恋愛を「空想」と捉えざるを得ない自らのマイノリティ性をも見る。一種のマジョリティによる暴力のようなものが自らの前に流れ込んでくる。それゆえ防御のための機制としてもそれらを拒絶するのである。

 

 もう少し議論を拡張してみることにしよう。

この空想と現実の話について,僕は昔から「認識的三次元」と「実存的三次元」という概念を用いて説明する。「実存」のほうは文字通りであるが,「認識的三次元」とは,「実際は三次元ではないが頭の中では三次元として処理する事象」のことである。たとえばマンガやアニメは実際には二次元平面であるにも関わらず,我々はその中に奥行きを見出す。ここに「認識」を以って二次元を三次元と擬制する。

一方で小説については「認識的三次元への擬制」と「実存的三次元への擬制」との両方があり得る。つまり小説を読んで「二次元の美少女」がイメージされるか「現実の人物」がイメージされるかの違いである。これは挿絵,或いは個々人の経験により左右されるため深くは追及しない。

さて,この二つの概念を持ち出す格好の材料が「マンガ/アニメの実写化はなぜ成功しないのか,なぜ叩かれるのか」という問題である。聡明な諸君であればお分かりであろう。これらが叩かれる原因は脚本のほかに,「認識」と「実存」の,「実存側の人間による」混同が行われているからである。

「実存」側の人間はたとえ空想的であろうとも「現実」を以ってものを描く。一方でオタクというものは「現実」と「空想」とを区別する能力に秀でている。もっと言えば,「認識的三次元」と「実存的三次元」とを完全に分離している存在である。それゆえ認識世界への実存の流入を良しとしない。そのうえ,「認識的三次元」の世界は多くの場合「実存的三次元」へのコンバートが(少なくともオタクの中では)不可能なものである。混ぜようとすると大きな違和感を産む。そもそも「認識」として生まれたものはそれ自身が「認識」世界の存在であるという強いミームの機能を持つのである。

そしてオタク以外にとっては「実存的三次元」へのコンバートが不可能な作品は「そもそも存在しない」。また,「実存」側の人々はオタクのテリトリーを土足で荒らしていく。さてどこに成功する要素があろうか。どこに叩かれない要素があろうか。

 

まとめよう。

結局のところ,オタクが実写を嫌う理由はひとえに「空想・認識」の世界への「現実・実存」の流入を嫌うからである。これはオタクは現実と空想の区別に優れているうえ,多くの創作的事象についてそれを「認識」の世界で処理するようになっているということに由来している。

 

 

 

軽く書くつもりのブログに重たい話題が並んでいく気分はあまり良いものではないけれど,僕自身が短文でセンスのあることを書けないのだから長くて重たいものになるのも仕方ないのかなともおもいつつ,早春の夜が更けていくのである。