処女厨から見た“イカレた”世界

こんにちは。前回とは打って変わり,タイトルからしてキッツいテーマですがお付き合い願えれば幸いです。さて,今回取り上げる話はタイトルの通り“処女”です。何分筆者は手の施しようのない処女厨でありまして,その思想は小学6年生くらいに芽生えたという生粋のアレなやつなのでありますが,残念なことに世界はそうはなっていないのです。この部分だけ見るとただのエロゲに毒されたオタクのようですが(まあ毒されてはいるんですけど)それだけではないということをちょいと自分のこれまでの身の上とともに考察していきたいと思います。とはいっても概ね処女厨の自分語りになってしまうのでやはりキツイことに変わりはありませんが。

 

さて,自分がこんなことになった起源を遡るとどこに辿り着くのかと言いますと,まずはエロゲとの出会いを振り返らねばなりません。筆者が小学4年生くらいの頃,関西の土曜日深夜には「今夜もハッスル」というAV女優とレイザーラモンともう一人くらいでやっている番組がありました。当時すでに塾通いをしていた筆者にとっては深夜番組やゲームくらいしか娯楽が無かったので,毎週のように観ていました。その番組の1コーナーでエロゲを扱うコーナーも当然(?)あったわけです。当時は単なるエロガキであった筆者は履歴の消し方を覚えると,そのコーナーで出たゲームを検索する(主にゲッチュとかだったかと思います)ようになりました。その番組で紹介されていたゲームは大概「抜きゲー」でありまして,処女厨思想とは殆ど関係のないものでありました。なにぶん性行為と妊娠の関係さえも朧気だったものですから,まあそういう思想を獲得するまでは至らなかったわけであります。

月日は流れて小学6年の末,受験で見事に大失敗をした筆者はアニメと出会いました。この辺り順序がかなりあべこべですが仕方ありません。当然アニメの女性キャラに対して発情し,いろんなサイトを飛んでエロ絵を見るわけであります。そこで血が出ている絵を発見しました。そんなことがあり得るのかと半信半疑に思い検索をかけると,そこにあったのは処女の文字。これが決定的な出来事でした。そこから小学4年生のころに持っていた記憶を引っ張り出し,エロゲのサンプル画像を眺めるとやはり多くのゲームにそのシーンがあったわけです。そして自分の中には「それが当たり前」という刷り込みがなされました。そして同時にこうも思ったわけです。「まあエンディングを迎える=結婚相手じゃないと出来ないよな」と。

 

ここで少し話はズレますがこちらの記事をご参照願いたく思います。

地方都市で、低学歴と高学歴の世界が交わるとき - 常夏島日記

筆者自身,公立が少々荒れた地区の生まれで,運よく滑り止めの中高一貫校に合格し,そこからはある程度環境の整った場所で生活を送ることとなったわけですが,高校入学前に小学校の同級生で集まる催しで聞き及んだ話とこの記事の事柄のとの間に概ね相違はありません。まぁ荒れているといっても本当にヤバいヤンキーは一握りしか居ないのでまだましな方ではありますが。多くの女子生徒がさっさと処女を捨てているという事実にまずここで衝撃を受けます。筆者がいた学校では部活が終わるとみなそれぞれ県単位で離れた自宅へと散って行くので,時間的にも金銭的にも余裕がない中学時代,女子はおろか男子同士でさえおいそれと会えるような環境にはありませんでした。相手に会いに行く交通費だってバカになりません。本質的に生きている時間距離と費用距離が異なるのです。尤も後から聞いた話では,一部のボンボンたちにとってそれは関係のないことだったらしく性経験を重ねていたらしいのですが,ほかの生徒にとっては縁もゆかりもないことだったのであります。では部活に入っていない人間はどうかというと,そういう人間は大抵オタクなのでやはり関係のない生活を送っていました。こういう比較的「綺麗」な環境にあったことも,筆者の処女厨的性質を加速させてしまったのであろうと思います。そのような経緯から,当時の筆者はその事実を「特異的なもの」「外れ値」として扱いました。

さて高校生になり,この辺りから周囲が色気づいてきます。高校生ということはアルバイトもできるようになりますし(尤も校則の上では原則禁止でしたが),時間の余裕もできます。とくに大学の付属校でもあったことから,内部進学組は受験勉強が必要ないということも手伝って,時間をだぶつかせていました。そこにこれまでは味わい得なかった恋愛という享楽を手にしてしまうわけです。それからのことは筆舌に尽くしがたいほどです。徐々にヤンキーのような生徒も出現し,校内の風紀は乱れないかわりに校外ではやりたい放題でした。

一方そんな中で筆者は何をしていたかというと,ひたすら勉強に打ち込んでいました。CLANNADをちらっと観て「やはり相手を幸せにするためにはちゃんとした大人にならねばならない」「そのためにはやはり勉強して仕事を得て稼がなければならない」という思想を得てみたり,生徒会の一存の杉崎鍵にすっかり心酔してみたりしていた自分は,単純に学力的側面から内部進学組を軽蔑し,さっさと学校を捨ててしまうことを選びました。当然そういう雰囲気は感じていたものの,やはり外れ値として対処する道を選んでしまったわけです。筆者の母校は中学から大学までストレートで行けてしまうため外部受験をするものは割と少数派で,同じ大学はおろか同じ県に通うであろうものさえ少ない有様であり,「付き合い続ける」ということを考えたとき,その集団の中で恋愛は成立し得ないレベルでありました。それゆえ筆者は高校時代もまた比較的「綺麗な環境」で生きていたわけです。尤も実際のところは外部受験組の中でもちょいちょいそういう話はあり,単純に筆者が鈍感な上,付き合いが少なかった故に話が回ってこなかっただけという要因もありますが。

そして勉強とオタク活動という二本柱の生活を続けていく間に,その清潔すぎる環境は自分の触れ得ない「恋愛」というものに対して独特な価値観を与えるに至りました。中学の頃に手を出しはじめたエロゲはどれもハッピーエンドのものばかりで,最後に主人公とヒロインはめでたく結ばれます。そして多くの場合は子供も生まれて幸せな生涯を送るわけです。以前ブログで筆者が述べた通り,オタクというのは無意識に「恋愛の空想化」をして生きている場合が往々にしてあり,実際自分もその一人でありました。それに加えて「清潔」すぎる環境(半分くらいは筆者の付き合いの希薄さに起因するものですが)がそこに拍車をかけました。現実に空想を混ぜるのはダメなことですが,空想に空想を混ぜるのは一種の創作行為めいたもので,それは責められるものではありません。市井からすると現実に空想を混ぜ込んでいる現象であっても,彼らからすると空想に空想を混ぜ込んでいるに過ぎないわけです。そうしてこれまでに筆者が抱いてきた思想が組み合わさり,どうしようもない処女厨が誕生したわけです。

記事を見返してみましょう。「まあエンディングを迎える=結婚相手じゃないと出来ないよな」「やはり相手を幸せにするためにはちゃんとした大人にならねばならない」「付き合い続ける」「それが当たり前」…これらの思想は大学入試の勉強で哲学をかじってから「理性」や「人間の本義」論と組み合わさりさらに強化されました。

結局勉強をして世間的には最難関とされる大学に受かった良いものの,そこに広がっていたのは自分が想像した世界とは正反対の“イカレた”世界でした。誰も彼もが我先にと純潔を投げ捨て,それぞれの快楽のためにはどんな手でも使う世界。恋愛は娯楽のひとつにすぎず,相手との将来など考えない群衆。受験が終わって束の間の自由を得,ようやく清潔な世界の外に降り立った筆者を待っていたのはまさに“この世の終わり”のようなものでした。ここにきてようやく自分が世間からとんでもなく乖離をしてしまっていることに気づいたわけです。しかしここまで来てしまった以上どうしようもありません。見た目に優れるわけでもなく,そして処女厨という大学や社会で恋愛をしていくにはあまりにも酷いハンディキャップを背負った筆者は,このままどこかで朽ち果てていくに違いありません。あるいは自分の信念を曲げてしまうのかもしれません。しかしどちらにしても耐え難い屈辱であることに違いはないわけです。

 

では結局今どう考えているのかというと

①性行為は相手と結婚する覚悟とそれを可能にする条件が揃っていなければあり得ない

②人間と動物とを分かつ理性とは快楽の制御にあり,それに負けたものは人間ではない

③お互いがそれ以外のものと関係を持っていたなど子供に対して失礼

④関係のために相手の将来の夢や自身のキャリアを歪めるわけにはいかない

⑤当然男も同様に童貞たるべき

⑥純潔のない「愛」「恋」は偽物

という6点に集約されます。限界にも程がありますね。しかしこれまでの記事を読んできた方ならこれが“必然”であったことがお分かりいただけるかと思います。たとえば中学くらいでこういう思想を持っていた人間でも,高校なんかで現実を知ってしまう(一番手っ取り早いのは近い女に食われてしまう)と快楽に飲まれておのずと修正されていくものですが,比較的小さく,清潔で,そして付き合いが希薄な状態で3年過ごしてしまうとそういう機会は失われます。人づきあいが苦手なオタクならなおさらです。

ここで聡明な読者各位は「ゲームだって結局は流されているのではないのか」という問いかけをされるのでしょう。それはもっともです。しかしゲームは現実とは違います。既定の物語に沿っている以上相手のキャリアのゆがむ可能性は0に等しく,そのすべてはエンディングへと収束します。現実にある不確実性はそこにはなく,最後には幸せな日々が待っています。これは私の6つの核心価値観に矛盾しません。

筆者はこれらの経緯をもって処女厨であることのエクスキューズにするわけではありません。キャリアを捨て,受験を捨て,現実を直視していればこういうことにはならなかったわけです。しかし自分はこういう道を選んだ。キャリアと受験を取り,現実から目を背け続けたツケが回ってきたにすぎないのです。こういう人間から見ると,現実世界とはまさに汚く,“イカレた”ものに見えてしまいます。世間が愛や恋と囁くそれは愛でも恋でもない。何も考えずにただ快楽に飲まれたくせに何を言っているのか。そう考えてしまうわけです。これは明らかに世間とは相容れません。そうして処女厨は世間に居場所をなくすのでしょう。

そうであれば私はおとなしくこの運命を受け入れます。世間の人々からすれば何を偉そうに言っているんだという感じでしょうが,残念ながら私は世間とは違いますし,当然前にも述べた通りその価値観とは本質的に異なるものを持った人間です。世間から見れば馬鹿げているでしょう。しかし私は世間の人々に対して「処女厨を馬鹿にしてほしくない」と切に願うのです。我々だってなりたくてそうなったわけではないのですから。

 

我々はただただ真面目に,愚直に,そして素直に「人間」であるだけなのです。