如何にコンテンツは劣化したか―ウンベルト・エーコのコラムから

明けましておめでとうございます(1か月遅れ)

周知のことかと思いますが筆者は大学生であり、ここ1か月はテストに追われていた(くせに本番爆死した)ので全く更新がありませんでしたが、ぼちぼち再開していこうかと思います。

さて、今回は少し真面目なテーマです。以前よりオルソンブログ等でテレビコンテンツの劣化などが論じられていたのでそれに便乗します。少し古いものになりますが2001年にイタリアの哲学者であるウンベルト・エーコによってL'Espresso紙に寄稿されたコラム"Pochi navigano su molti canali"を解説しながら、如何にイタリアのテレビが劣化したかを読み解きつつ、日本の状況との類似性について考えていこうと思います。とはいってもイタリア人の知り合いなんてほぼいませんし、イタリアの現況はエーコによる記述のみに頼ることになるので正確性がある程度犠牲になることをご容赦願います。では始めていきましょう。

まずエーコはアルド・グラッソがCorriere della Sera紙に寄せた、過去の番組の再放送を歓迎する内容の批評を取り上げます。グラッソ曰く"かってのバラエティは喜劇性の無尽蔵な宝庫"であり"今日のそれはbalbettare=たどたどしい"というのです。同時にグラッソは、昔はプロの喜劇師によって、現在は普通の人々の存在に凭れ掛ることで番組が作られていると指摘しています。これについてエーコは、"間違いなく正しいが、一側面でしかない"と記述しています。

初期のTVは1チャンネルのみで(のちに2チャンネルに増えた)、バラエティは週に1度、それゆえ必要なコメディアンの数は知れています。そういうわけでテレビに出られるのは数十年の下積みや修行に裏打ちされた実力者か、それに類するレベルの人間しか出られませんでした。しかし現代は毎日2回、10チャンネル分のバラエティが存在しており、また日本のように同じ面々をドカドカ出すという文化はないため、それだけ大量のコメディアンを発掘する必要があります。そういうわけでイタリアのテレビ局は片っ端からコメディアンを寄せ集め、また素人だろうと多少目立つ特徴があればためらいなく取り込んでしまうようになりました。エーコはこの状況を"si devono scaraventare in video non solo gli esordienti dell'ultimo cabaret, ma persino quelli che sono ancora sulla strada tra il bar del paese e il cabaret del capoluogo vicino." "テレビ制作者は場末のキャバレーの新人芸人だけでなく、そこに行くまでの道端にいるような(デビューさえしていない)どうでもいい人間をもテレビの中に移動させる必要があった"と痛烈に批判しています。当然そのような状態だと、たまにはすごい人間が現れることもありますが、そのうち世間に転がる才能を刈りつくしてしまいます。こうなると後はジリ貧です。

エーコはこの問題をテレビ製作者の低俗化ではなく、過度なチャンネルの増加が原因であると指摘します。

そもそもチャンネルとは何なのでしょうか。テレビはmedium、つまり仲立ちするものです。ここでの仲立ちの対象は情報ですが、これに限らず水や人も仲立ちの対象になります。それゆえ古代から様々なチャンネルがつくられてきました。水を通すためにローマの水道橋が生まれたり、人や物を通すためにアッピア街道が整備されたり、飛行機や鉄道が発明されたりしたのがその例です。

以前はチャンネルの容量以上の通すものが存在したためチャンネルの増設が急務でした。そしてそれがある程度需要を満たしてくると、今度はチャンネルが余るようになります。しかし一度増えはじめたチャンネルは、指数関数的に増加していき、ついに止めることも減らすこともも出来なくなってしまいます。一方で増えすぎたチャンネルにはその分だけ維持費がかかります。

もしこうなったときには何が起こるのでしょうか。エーコは"人為的なトレンドの量産"が起こると指摘します。例えば高速道路をつくりすぎたときに何が起こるかというと、旅行業界と高速道路の事業主体が結託してその空いているチャンネルを満たすようなトレンドを勝手に内部で作り出すというのです。"誰かに会うならインターネットがあり、会わなくてもいいからチャンネルが余っている。それを正当化するために遠出したところで会うというトレンドがつくられる。"と彼は言います。(もっともこれについては議論の余地がありますが) また彼は携帯電話についても、"その数は人々の言うべき事を上回っており、それゆえどうでもいいやり取りを作り出す必要があり、変に高度な機能を携帯電話につけ始める"というスマホ全盛期の今からすると考えられないようなことを言っています。

そして最後に、テレビ番組の劣化の問題は"余り過ぎたチャンネルのために競争や流行が内製化され、実際の需要には一切応えない"ことに帰結するとエーコは結論付けます。放っておいても継続的にコンテンツになりそうな人間は概ね刈りつくしてしまう。だから社員たちはそのためのコンテンツを一回きりだろうが何だろうが必死になって探す。そしてそれをブームに仕立て上げ、一時的にチャンネルを満たすことを繰り返す。結局それはさらなるテレビ離れへとつながり、無際限に増え続けるチャンネルとともにテレビは勝手に沈んでいくということなのでしょう。

 

以上がテレビ番組の劣化に対するエーコの主張の要約です。どこかで見たような話もあれば、聞いたこともないような話もあることでしょう。このコラムの最も大切なところは最後の部分です。ここではブームの内製化にしか言及されていませんが、それ以外にも成功したものに盲目的に追随することも競争の内製化に含まれるのかもしれません。ここまで見れば、現代の日本のバラエティ番組の劣化との類似性が見えてくることだろうと思います。ネットから引っ張ってきた映像を垂れ流す、流行ってもいないものをブームに仕立て上げ、それについての特集で放送時間を埋める、センセーショナルな話題を挙って延々と放送し続けるなど、近年のテレビに対する不満の一部とばっちり一致しています。但し、当然のことながら相違点もあります。最も大きなものとして、ここではチャンネルが余っている、放送すべきものを全て放送しているという前提で論が展開されていますが、実際はそうではありません。むしろ問題なのはそちらの方とも言えますが、これ以上言及するのはやめておきます。

あるいは序盤の記述は一時期山のようにあったお笑い番組の急速な減少の原因として考えることができるかもしれません。ネタの生産速度はそれほど速くない、同じネタが出てくると視聴者は飽きる、そうでなくても出すぎると不満が出る、そしてそもそも一般受けする芸人の量は限られているため、そのうち刈りつくしてしまう。これらの要因からお笑い番組が急速に衰退してしまった、とモデル化することも出来ます。尤も現実はもっと複雑でしょうし、この解釈はおそらく正確ではないのでしょうが。

ともかく、これが2000年前後のイタリアで起きていた事象とそれに対する簡単な(考察未満の)付け足しです。付け足しの方がえらく適当で貧弱で雑ですが、おそらく普通に生きていたらイタリア人のこういう主張なんて目に入ってこないでしょうし、この記事が何かのヒントになれば幸いです。次回は「まいかドリル DE イタリア語」の第3回になると思いますのでそちらも併せてお願いします。

 

参考・引用

Umberto Eco, Pochi navigano su molti canali, in <<L'Espresso>>, 20 settembre 2001, p.218.