無鶏不成青春

食は広州にありと人は言う。食の歴史の中で広州がどれだけ役割を果たしてきたかということは寡聞にして知らないけれど、広東料理の総本山なのだから知らなくても想像くらいは出来よう。有名どころで言えば飲茶、焼売、雲吞が広東の出身だというのだから、これは現代の日本の食とは切っても切れないといっても過言ではない。さて、その広州には「无鸡不成宴(鶏がなければ宴にならない)」という言葉があるらしい。鶏は多くの宗教のタブーをすり抜け、ケもハレも問わず、世界中で食されている生き物である。かくいう筆者も鶏のモモ肉が大の好物なのだ。蒸し鶏、唐揚げ、炒め物、カレー、焼き鳥……その他いろいろな鶏もも肉を使った料理が大好きな筆者は、ともすればこの格言は世界の本質であるのかもしれないとさえ思う。とかく、鶏肉は多くの人々の生活の中に入り込んでいて、下手せずともその人の人生のどこかには必ず鶏がいるとも言えよう。そう、かくいう筆者の人生の中にも鶏が入り込んでいる。

 

話は広州からいったん京都に戻る。2016年、大学に合格した筆者は、中学から弁当制度を廃止していたこともあり、昼食は大学の周りで食べることと相成った。しかし、入学直後に声帯をやってしまったため、大学のスタートダッシュに失敗、ほぼ知り合いがいない状態で最初の半年を過ごすことが確定的となっていた。それゆえ食事は基本ひとりだった。最初の数日は生協の食堂に通っていたが、高校の生協と代わり映えしないメニューにもそろそろ飽き、また多くの人々が歓談しているのを見るのもいたたまれなく、更に毎日のように虚無の行列を待つのに堪えきれなくなったころである。当然、学生街なのだから学外には安くて量の多い店がたくさんある。筆者の目が外に向くのにそう時間はかからなかった。

 

さて、どこに行くか。最初はラーメンやカレーといったオーソドックスなところに通っていた。ラーメンは二郎系を名乗るだけあって野菜がアホみたいに乗っていたし、カレーはナンが無限に出てくるタイプの店だったので、空腹を満たすには十分すぎたが、正直メニューの幅が限られてしまうため、これも2週間くらいで飽きてしまった。そこで目をつけたのが中華料理屋である。たどたどしく、怪しい日本語で書かれたホワイトボードを見つけたのは入学翌日のことだったが、なんとなく足が向かず、開拓せずにいたところだった。中からはやはり怪しい日本語と、中国語が混じったオーダーの声が聴こえてきたし、当時ピンインのピの字も知らなかった筆者としてはかなり尻込みしてしまう状況だったが、メシの誘惑には人間耐えられないもので、気が付いたら、中国人に導かれるまま席についていた。

 

中はくすんだ白をした壁に、小さめのテーブルがいくつか並んでいる、家庭的なつくりだった。客は半分が中国人、半分が学生で、ランチタイムのご飯のおかわりが無料だという紙が大きく張り出されていた。

 

では何を食べるか。麻婆豆腐にレバニラ、炒飯と、ひととおりのメニューは揃っていたが、その程度は百万遍の王将で食べればいい話であって、わざわざここに来たのだから、ガチ中華っぽいもの(そもそも当時はそんな言葉なかったが)を食べたい欲望が溢れてきた。そこで目に留まったのが「鶏肉の辛口煮」である。四川料理と思しき真っ赤な色をした写真に目が釘付けになった。そして隣の客が頼んでいたのもその辛口煮であったのが運の尽きである。筆者の口は、鶏の辛口煮の名前を告げていた。

 

数分後、大きな皿に山盛りの辛口煮が運ばれてきた。中身は白菜、春雨、鶏もも肉が主で、あとは鷹の爪がふんだんに入っていた。一口スープを口に運ぶと衝撃が走った。とんでもなく辛い。辛さに特別強いわけでもないのだから当たり前のことではあるが、出来立てアツアツなのと相まって、半端ない強さの味になっていた。味に強さという概念を見出したのはここが初めてだったかもしれない。シャキシャキの白菜は絶妙に味が付いておらず、春雨はデロデロで、鶏肉に至っては最早味が分からないほど辛かったが、一心不乱に食べきった。決して絶品だったわけではない。味付けにしても調理にしても、多分もっとうまくやろうと思えば出来るはずだ。けれども完食した。完食できてしまったのである。ついでに言うと辛すぎてご飯を2度ほどお代わりした。

 

それから筆者は取り憑かれたようにその店に通った。幸い大学の北門から自転車で1分とかからない立地だったので、3限に授業が詰まっていても安心して行けた。雨の日は傘を差して歩いて向かった。暑い日も寒い日も、テストの日も、果ては夏休み中まで、狂ったように通っては、そのはた目からは完成度の高くない、けれどどこか病みつきになる辛口煮を求めてその店の暖簾をくぐった。今となっては、店の親父は昼から酒のようなものを呑んでいたし、付け合わせの大根の漬物が常軌を逸した塩辛さだったし、唐揚げはガチガチで、たまに火の通りが不安になることもあったような店なのに、どうしてそこまで躍起になって通っていたのかはよくわからない。

 

時は流れて3回生になり、筆者も授業に余裕が出来、3限を空けて飛鳥井の中華街や一乗寺へラーメンを食べに行くことを覚えたころである。突如として「店が潰れる」という情報が出回った。店に行ってみると、確かに閉店のお知らせが貼ってあった。理由は分からない。けれどもあの辛口煮が食べられなくなるということに大きなショックを覚えたのは記憶に残っている。それからはまた毎日のように辛口煮を食べに通った。そして店は閉店の日を迎えた。

 

後継の店はやはり中華で、なんと辛口煮があった。頼んでみると、ほぼ同じビジュアルのものが出てきた。しかし、食べてみると少し味が違った。端的に言うと完成度が高すぎたのである。美味しすぎたのだ。もっともこれも絶品の類ではなかったが、明らかにこれまでのものとは毛色の違う味をしていた。何度か通ったが、結果は変わらず、コロナもあって、それっきり行かなくなってしまった。味を似せようと家で何度か試してみたりもしたが、結果は芳しくなかった。

 

数か月前、大学に用もなく足を運んだついでに、その店がどうなったのか見てみると、驚いたことに潰れてしまっていた。やはり学生が外に出なくなってしまったのが痛手だったのだろうか。その他の店もだいぶん様変わりしていて、時の流れの残酷さを感じるとともに、筆者の過ごした青春は、もうそこには残されていないことに、少しの寂寥感を覚えた。百万遍には新しい店が出来、飛鳥井の中華街の出入りは激しく、そして大学の姿も様変わりしてしまった。懐古の情でしかないが、やはりあの中華屋があったころこそが私の青春であり、また古今東西多くの同学の学生たちにとっての青春時代だったのだろうと思う。森見登美彦の世界にも出てくるあたり、そこそこ歴史は長かったようだ。

 

今やあの大学は筆者の通った大学ではなくなってしまった。百万遍の街も様変わりしてしまった。それでもなお用もなく足を運んでしまうのは、またいつか、筆者の暮らした風景が、あの青春の情景が、どこかに戻ってきてくれないかと小さな希望を抱いているからに他ならない。もしかしたら鶏肉の辛口煮はそのエネルギー源のひとつだったのかもしれない。かくして筆者はあの完成度が高くないけれど、無性に食べたくなる鶏肉の辛口煮に思いを馳せ続けているのである。そして心の奥でこうつぶやく。「無鶏不成青春」と。